
戦国時代の英雄・武田信玄と、幕末の志士・板垣退助。
生きた時代も活躍した舞台もまったく違うふたりに、実はまさかの接点があるとしたら――。
その答えは、山梨県甲州市にある大善寺の山門前にありました。
今回歩いたのは、その大善寺の山門前。
「板垣退助と武田家に関係があるなんて」と驚いた、その顛末をご紹介します。
1.大善寺で知った「柏尾坂の戦い」とは?板垣退助と近藤勇が甲州で激突

大善寺の山門前には、柏尾坂の戦いについての案内文が置いてあります。

私が立っていたこの山門前で、江戸時代最後の年に「柏尾坂の戦い」という戦いがあったのが分かりました。
①柏尾坂の戦いとは?
では、この「柏尾坂の戦い」とはどのような戦いだったのでしょうか。
私が訪れた山梨県にあった甲府城は、江戸幕府にとって西側への備えとして重要な拠点でした。
江戸時代の末期。戊辰戦争の際、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は、その甲府城を確保するため江戸幕府により甲州に送り込まれました。
しかし、甲陽鎮部隊は、新政府軍に先を越され甲府城を確保できませんでした[2]。
そして、慶応4年(1868年)3月6日、大善寺の山門前を中心とする柏尾坂周辺で、甲陽鎮部隊と板垣退助を参謀とする新政府軍が戦うことになります。これが、山梨県における戊辰戦争唯一の地上戦となった「柏尾坂の戦い」です。
わずか2時間ほどの戦いで、新政府軍は、甲陽鎮撫隊などの旧幕府側部隊を打ち破ります[1]。旧幕府軍は江戸方面へ敗走しました[2]。甲州の人々に江戸幕府の崩壊したことの現実味を伝えた戦いとして知られています[2]。
②なぜ甲州は重要だったのか
戊辰戦争の際、甲陽鎮部隊は、江戸幕府により甲州に送り込まれましたが、なぜ、甲州だったのでしょうか。
それは、甲州が色々な意味においてとても大切な土地であったことに由来します。
自然の要塞と交通の結節点
周囲を高い山に囲まれた地形が防衛上重要である一方、信濃・駿河・関東へと通じる街道が放射状にのび、周辺国へのアクセスも良い交通の結節点でもありました[1]。
経済的重要性
甲州では、金が産出されます。江戸幕府の財政を支える経済的にも重要な拠点でした。
将軍の避難場所
江戸幕府の将軍にとっては、甲州は避難の拠点として重要な土地でした。
江戸城で万一のことがあった際には、甲州街道を通って甲府城まで避難するルートが非常時の退避路として想定されていたとされます[3]。そのルートの出口が、東京にある「半蔵門」だったと言われています。そして、その「半蔵門」の名前の由来は、服部半蔵(服部正成)や伊賀者に由来するという説があります(由来には諸説あります)[4]。
2.板垣退助と武田信玄の関係
このように重要な土地であった甲州。
ここで起きた戊辰戦争の局地戦・「柏尾坂の戦い」をきっかけに、私は、幕末の志士として知られる板垣退助と、戦国時代の名門・武田家の意外な関係を知ることになりました。
①板垣家の祖先はもともと武田一族
乾家(退助の生家)に伝わる系譜によれば、板垣家の祖先は、もともと武田一族だったということです[5]。武田から枝分かれして「板垣」と名乗るようになり、のちに武田家の家臣(大名などを補佐する身分の高い家臣のこと)になったのだということです。
②板垣退助の祖先 板垣信方は武田信虎・信玄の重臣
このように、もともとは武田の一族でありながら、武田の重臣になったと伝えられている板垣氏。
板垣信方という人物が、戦国時代の甲斐国で、武田信虎・信玄父子二代にわたって重臣として仕えました[5]。そして、この板垣信方は、板垣退助の祖先にあたると伝えられています[5]。
つまり、板垣退助の祖先が、武田信虎・信玄親子の重臣だった。まさかこんなところで、板垣退助と武田信玄がつながっていたとは、思いがけない発見でした。
③武田家を滅亡させたのは織田・徳川連合軍
武田信玄のあとを継いだ勝頼は、織田・徳川連合軍に追われ、天目山北麓の田野(山梨県甲州市大和町田野)で自害し、武田家は滅亡します[5]。天正10年(1582年)3月11日、勝頼は嫡男の信勝、正室の北条夫人とともに自害し、ここに甲斐武田氏は滅亡しました[5]。
④板垣退助が「板垣」を名乗った理由
ところで、板垣退助は、代々続く土佐藩の上士[6]・乾家の嫡男として土佐で生まれました。
つまり板垣退助は、もともと「乾退助」と名乗っていたのです。ただし、乾家の本姓は「板垣」で、その家柄は武田信玄の重臣・板垣信方にまでさかのぼると伝えられています[5]。
乾退助が「板垣」を名乗り始めた時期は、慶応4年3月、新政府軍が甲府に入ったころとされています。柏尾の戦いに先立ち、武田信玄の重臣だった先祖・板垣信方の子孫であることをアピールする狙いがあったようです[8]。甲州の人々や武田家ゆかりの人々を新政府軍側に取り込むための、政治的・軍事的な意図もあったと考えられています。
3.柏尾坂の戦いは「世代を超えた因縁」だったのか
織田・徳川連合軍によって滅びた武田家。その家臣の子孫を称した板垣退助。今度は徳川政権を支える旧幕府側の部隊と甲州で戦うことになり、その戦いに勝利しました。
300年近い年月を経て、めぐりめぐって、世代を超えた因縁のような巡り合わせに、思わず胸が熱くなりました。
もっとも、板垣退助自身がこの戦いを「先祖の仇討ち」と考えていたことを示す史料があるわけではありません。武田家を滅ぼしたのは織田・徳川連合軍であり[7]、柏尾の戦いの相手が「徳川家そのものの軍隊」だったわけでもありません。
それでも、武田家の子孫と称した板垣退助が、甲州で旧幕府軍と戦って勝ったという事実。とても興味深いと思いました。
4.まとめ|大善寺でつながる板垣退助と武田信玄
山梨・勝沼の大善寺の山門前から始まった歴史さんぽ。
歴史パズルのピースが少しずつ埋まっていくような、純粋な楽しさを教えてくれました。歴史が苦手な私でも、こうして人物同士のつながりをたどっていくと、景色の見え方が少しずつ変わっていく気がします。
さて、次は、どこに歴史さんぽに出かけましょうか。
出典・参考資料
- 甲州市教育委員会「柏尾の戦い~甲州人がみた江戸幕府の崩壊~」。甲陽鎮撫隊近藤勇率いる旧江戸幕府軍と、板垣退助率いる新政府軍が柏尾で衝突。山梨県における戊辰戦争唯一の地上戦。慶応4年3月6日、大善寺山門前を中心とする柏尾坂周辺で戦闘が行われた。
https://www.city.koshu.yamanashi.jp/docs/2022093000055/ - 甲州市教育委員会「柏尾の戦い史跡めぐり~山梨と戊辰戦争~」。勝沼町の柏尾坂周辺で新選組の近藤勇らで構成された旧幕府軍と、板垣退助率いる新政府軍が衝突した「柏尾の戦い」の案内。山梨県における戊辰戦争唯一の地上戦。
https://www.city.koshu.yamanashi.jp/docs/2022112900021/ - Edo→Tokyo「半蔵門の名前の由来-服部半蔵と伊賀同心」。半蔵門は江戸城における有事の際の逃亡のための門(搦手門)とされ、半蔵門から甲州街道を通って甲府城へ逃れる手はずがあったといわれている。
https://edokara.tokyo/conts/2017/05/20/667 - Edo→Tokyo「半蔵門の名前の由来-服部半蔵と伊賀同心」。半蔵門は江戸城における有事の際の逃亡のための門(搦手門)とされ、半蔵門から甲州街道を通って甲府城へ逃れる手はずがあったといわれている。
https://edokara.tokyo/conts/2017/05/20/667 - 高知市立自由民権記念館 学習用教材『板垣退助ブック ~言論で国を動かそうとした男~』。退助の先祖は武田信玄の重臣・板垣信方であるといわれているが、「真偽は不明」と記載。また退助は土佐藩上級武士「馬廻」の格式である乾家の嫡男として生まれたと解説。
https://www.city.kochi.kochi.jp/uploaded/life/182643_683934_misc.pdf - 「上士」とは、土佐藩の身分制度の一つで、藩主・山内家に従って土佐に入った上級武士の家格のことをさします。これに対して、長曾我部家旧臣など従来から土佐の国にいた武士を「下士」といいます。
- 甲州市教育委員会『甲州市文化財報告書 第7集』(山梨県指定史跡 武田勝頼の墓 総合調査報告書)。天正10年(1582年)3月11日、武田勝頼は嫡男・信勝、正室・北条夫人とともに田野の地で自害し、甲斐武田氏は滅亡した。勝頼37歳、北条夫人19歳、信勝16歳。田野地区周辺では、武田勝頼一行を追う織田・徳川方の軍勢と武田方が交戦したとされる。景徳院は徳川家康により勝頼の菩提寺として建立された。
https://sitereports.nabunken.go.jp/(甲州市文化財報告書 第7集) - 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「板垣退助の旧姓は乾(いぬい)といったが」。『板垣退助』略年表に「明治元年(1868)3月6日甲州勝沼に戦勝、この頃乾姓を改め板垣氏を称す」と記載。『角川日本姓氏歴史人物大辞典19山梨県』に「明治元年三月五日東山道総督府参謀として甲府に入城したとき、退助自ら信方の裔と称している」と記載。乾家の祖先は武田信玄に仕えた板垣信方(信形)と伝えられ、遺児の正信は山内一豊に仕え土佐へ移った。
https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000254215
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